1964.08.15
関刃物業界の大元老 久保泉翁永眠 18日朝千手院で告別式(1964年8月15日 中濃新聞)
以下掲載本文
関刃物業界の大元老 久保泉翁永眠 18日朝千手院で告別式
関刃物業界の元老が
古木の枯れるように安楽往生した
関市吐月町、関特殊利器製造株式会社社長久保公二氏の厳父久保泉翁は
予て同町の自宅で病気療養中であったが12日午前3時15分、安らかに永眠した。
久保家では13日自宅で密葬、遺骸を茶毘に付した。
告別式は18日午前10時から同市西日吉町の千手院で行う。享年78。
郷土産業界の先覚者 茶や俳句の生活 晩年は「寿大学」の学長
故久保泉翁は明治19年8月13日、
加茂郡旧加茂野村稲辺(現美濃加茂市加茂野町稲辺)の旧家森野家に生まれた。
明治25年、関市旧高見町(本町7)関鍛治奈良太郎藤原兼景の
後裔久保裕之翁の婿に迎えられ、
その長女故すずさんと結婚し家業の打刃物業を継いだ。
この頃は旧来の日本的な刃物が洋風の刃物に切りかわろうとする、
いわゆる関刃物業界での洋刃物揺籠時代で、
当時の陸軍被服廠へナイフを納品したのも関市の久保氏が最初であった。
久保翁は当時の同業者と話し合って
「六郎左衛門尉元重」の頌徳碑を日吉ヶ丘に建立した。
大正3年のことである。
元重は今から七百余年前、九州から関の里へ来て刀鍛治の仕事を始めた。
これが関鍛治の起りである。
久保翁は関鍛治の刀祖そして関刃物業界、
今日の礎を築いた祖先に感謝するため頌徳碑の建立に同志と共に力を尽した。
それ以来、関市ではその碑の建つ日吉ヶ丘で
毎年11月8日の「ふいご祭り」に刀祖祭を営む、ならわしになった。
大正5年、関刃物業界の力を結集するため関刃物同業組合を
設立した久保氏はその副組合長に選ばれた。
大正6年、久保氏は市内にポケット・ナイフ専門の製作工場を設立、
翌年日本陶業と提携してポケット・ナイフ海外輸出のスタートを切った。
また金属洋食器の前途に着目した久保氏は
関市が生んだ当時の実業家故林武平氏その他の有志と相談して
洋食器メーカーの関刃物株式会社を大正8年に設立その専務取締役になった。
関での株式会社の最初である。
その頃から支那大陸への貿易に本格的に乗り出し
関刃物業界のため新市場の開拓に当たった。
時代は昭和に入り久保氏は昭和8年、
アメリカで造っていたエドランド鑵切りを初めて日本で造った。
また鋳造技術も関へ導入した。
有限会社久保鋳造所(関市吐月町)の始まりである。
昭和12年には手榴弾をつくり軍需第一号として納入した。
12年には県鋳物工業組合も設立その役員にもなった。
長男公二氏の経営する関特殊利器製造株式会社の設立は
終戦後の23年で久保翁は上昇ラインをたどる同社の業績に心ひそかに喜んで来た。
久保翁は茶人であった。久保家の離れ座敷に住み、
ここを亀泉亭と名づけて茶室も設け「おてまい」を楽しんできた。
また歌人でもあった。古稀を祝って
”七ながれふち瀬の関にうきしづみ古稀渡りけりささ舟の旅”
と詠じ、これを短冊に認め舟型の短冊差しにさして友人知人に贈った。
さらに翁は俳人でもあった。郷土惟然顕彰会の顧問をやり、
郷土俳人の集いである鳥落社の同人として月々の月例句会にも投句して来た。
俳名は「亀泉」と号していた。
死の前日であったか病床に筆と硯を取り寄せ
”神鳴も太鼓花火で祝い居り”の一句をものした。
翁の容態が、だんだん悪化して来た。もう言葉も聞きとれないほどになった。
子孫ら肉身がマクラもとに集り、心配の視線を翁に集めていた。
すると翁はペンと紙を取り寄せ
「幼稚園の運動会の前のように嬉しうてかなわん」と認め皆に見せた。
死を寸前に久保氏は平然として子や孫たちに見守られているのをこんなに楽しんでいた。
気丈で理知豊かな翁の在りし日を偲ばせるものがある。
翁は郷土産業界のため立派なレポートをのこしている。
それは関鍛治始の祖・六郎左衛門尉元重の出生地が
九州の一角である事を立証する報告書である。
久保翁は、昨年はるばる九州に旅行して刀祖元重の揺籠の地を探し求めた。
そしてそれが九州の谷山市の一角、
笹貫(ささぬき)であるらしいことを立証したものである。
翁はこのレポートを本紙に寄稿し、
さらにその原書「関鍛治始祖元重翁生誕地調査書」と題して
刀祖の菩提寺千手院に所蔵してもらっている。
久保氏はこの調査を何年かかってもやり抜く決意を固めていたが、
それも今では死神のため挫折のやむなきにいたった。
久保氏は大の子福者で11人の子女をもうけた。
長男の関特殊利器社長久保公二氏をはじめ、
二男の久保鋳造所代表者久保欽司氏、三男特殊利器常務鍾氏ら、
それに三和刃物の遠藤斉治朗社長夫人久子さん(末子)ら
現在、健在している子女だけで7人で、孫が24人、ヒコが3人ある。
晩年の久保氏はこれら子女や孫ヒコに取り囲まれて
賑やかな日を過ごすことを何よりの楽しみにしていた。
なお久保翁は37年9月21日に行われた
中濃新聞創刊15周年記念祝賀会の席上、
産業功労者としれ顕彰されたが、翁が関市の産業界に残した足跡は大きい。
また関市に生まれた老人グループ「寿大学」の学長としても活躍した。
それにしても最近、政府が久保翁の功績を
国家的なものと認め褒章授与の段階にあったが、
その栄誉を担わずに他界したことは惜しまれる
=写真は在りし日の久保翁
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